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お千代さん

まさか、この年中にお千代さんの訃報を聞くとは思っていなかった。

藤圭子さんの時とは違って、ある程度心のどこかで覚悟はあったので、
意外、呆然という思いは少ないが、ただ、ただ寂しさがこみあげてくる。

島倉千代子の数々の名曲のなかで、
私が最も好きなのは「東京だよおっ母さん」(東京だョおっ母さん(1957年) )である。

作詞野村俊夫、作曲船村徹のこの曲は、
日本独自の詞のテーマ性とその物語の完成度の高さ、
曲のもつ哀調とその抒情性とに、
島倉千代子というなにものにも代え難い歌い手を得て、
日本歌謡史に残る名曲となった。

私としては、「リンゴの唄」、「高校三年生」とともに、
この曲が戦後の国民歌謡ベスト3だと思っている。
理由は、「リンゴの唄」が終戦直後の国民に希望を与え、復興への力を鼓舞したこと、
「東京だよおっ母さん」が戦争で亡くなった人々(およそ300万人)と、
その遺族への鎮魂の役割をはたしたこと、
「高校三年生」が戦後生まれの若者にとっての、青春歌謡のさきがけとなったことである。

著作権の関係で、ここにその歌詞を引用するわけにいかないが、
老いた母とその娘がめぐる、皇居、靖国神社、浅草寺というたった三つの東京の風景が、
戦中、戦後の日本の全体像を見事に象徴していると思われた。

この辺りを語りだしたらきりがない。

「この世の花」、「逢いたいなァあの人に」、「からたち日記」もいいが、
「哀愁のからまつ(落葉松)林」、「夕月」も捨てがたい曲であった。

また、「明治一代女」や「隅田川」など、リバイバルカバーもよかった。
「無法松の一生(度胸千両入り)」のような男歌にも挑んだ。

またしばらく、お千代さんの曲を聴いてすごそう。

思いがけず、多くの苦労を背負われた方だ。
歌えなくてもいいので、もっともっと長く、平穏に生きていただきたかった。
75才は、女性としては早すぎる。残念だ。

舟木さんも、コロムビアの大先輩をまた失って、本当に寂しいだろうと思う。
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藤圭子さん

<藤圭子さんを惜しむ>

「ただ、イチローファンにとってせっかくの記念日だったのに、
日本では、宇多田ヒカルのお母さんの「かっての藤圭子」さんが亡くなった日になってしまった。
苦労した自分の十代を投影したかのような、暗い唄を歌った(歌わされた)人だったが、
時代背景もあって、私もとても好きだった。
デビュー間もないころの、
あの「大人になったいちまさん」のような美しさと、ハスキーなうた声が忘れられない。

石川プロの話と少しずれてしまった、ご了解願いたい」

この7行が石川遼カテゴリー「いろいろのこと」に書いた文章である。

これを書いたあと、改めて藤さんのうたを聞きなおしてみた。
そして、やはり別に文章をたてて藤圭子さんに言及しておきたいと思った。

よく考えれば、このブログは舟木さん応援のブログでもあって、舟木さんに関すること、
歌に関することは何を書いても許されるわけである。
そして、それは舟木カテゴリーに書くべきだと思った。

舟木一夫が人気絶頂の時代をすぎて、一度「舞台のそで」に退くときに、
入れ替わるように表舞台に登場してきたのが藤圭子であった。

私は大学生で、学生寮(県人会運営)の食堂のテレビで先輩達が「夜のヒットスタジオ」を見るのを、
一番後ろでながめていた。

私は生来意固地な性格で(何回言ってるんだ)、
舟木デビュー後は男性歌手は舟木一夫しか認めなかった(笑)から、
「ブルコメ」や「クールファイブ」の時代が来ても、確かに歌は歌ったが、
その歌手のファンになったことはない。
変な言い方だが、ここら辺のニュアンスは私と似てる皆さんはわかってくださると思う。

だから、「小樽のひとよ」は好きだが、ロマンチカのメーンボーカルさんが好きなわけではない。
(三條正人さん、ごめんなさい)
むしろ 鶴岡雅義さんこそが、私にとって「東京ロマンチカ」なのだ。

だから、自慢じゃないけどジュリーが好きになれなかった。(沢田研二さん、ごめんなさい)

藤圭子はそんな中で、ひそかに好きだった歌手である。

そりゃ女性だからだろうって、いうんでござんすかい、おあにいさん、
まあ、当たらずといえども遠からずでござんすが・・・ってなんで、いたこのいたろう、
いや、柴又の寅さん風になってしまうんでござんしょうか。

話をもとに戻すと、舟木一夫が出現する前に、私にも当然好きな楽曲はあった。

何が私の歌好きの下地となっているのかわからないが、戦後まもなくから、
レコード会社専属の少女たちが歌う唱歌や童謡も好きだった。
また、母が浪曲の好きな人でよく聞いていたので、民謡や浪曲に何のアレルギーもなかった。

舟木がデビューしたのが昭和38年6月、私が中学2年のときだったから、そのころを思い出すと、
当時流行っていたのが三橋美智也の「古城」(昭和34年7月リリース、以下同じ)、
井上ひろし「雨に咲く花」(昭和35年7月リバイバル曲)、松島アキラ「湖愁」(昭和36年9月)、
村田英雄「王将」(昭和36年11月)などであった。

これらの歌が私はどれも好きだった。

今の人達にことわっておかねばならないが、このころのヒット曲というのは、
2年も3年もかけて流行らせるものだった。
三橋美智也の「古城」も私の記憶では、
昭和36年ころに地方にも人気が波及してきて、全国ヒットになったように思う。

なぜかというと、今のように放送局(主にテレビ局)が地方になかった。
地方の県では、NHKと民放1局というのが普通だった。
関東、中京、近畿エリアを除けば、東京キー局開局にあわせて地方局もできたのは、札幌、福岡のみであろう。
ある県のたった1局の民放はTBS系列で、隣の県の民放は日テレ系列であるという状態が長い間普通だった。
そして、「はやり歌」の紹介番組などというのは、まだテレビではなかったのである。

そのころ、地方系列局がほとんどなく、
色物についてもナベプロ主導で製作していたCXには「ザ・ヒットパレード」があったが、
名前のように、初期のJポップ(アメリカン・ヒットの日本版)を主体としたラインアップだった。
ここで三橋や村田などの演歌系を出演させることは、まずなかったであろう。
またこれを、当時地方の人々がみることはほとんどありえなかった。
(和歌山や徳島といった混信エリアは除く、
また、番販による系列外局の放送もVTRの普及がまだなく不可能だったと思われる)

「夢で逢いましょう」(NHK)や「シャボン玉ホリデー」、「光子の窓」、
「ホイホイミュージックスクール」(以上日テレ)は確かに歌番組だったが、
その中身はバラエティ番組であった。
「ロッテ歌のアルバム」(TBS・劇場中継)という純粋の歌番組のスタジオ版が現実化したのは、
やはりTBSの「歌のグランプリ」やCXの「夜のヒットスタジオ」までまたねばならなかった。

ちなみに、私の出身県の唯一の民放は日テレ系列だったが、
TBSの「ロッテ歌のアルバム」も見ることができた。
これは、系列外ネットといって、マイクロ受けという技術で行われた放送である。
主に土日の昼間の放送はこういう手段で、「他系列の人気番組」を多くの地方局が放送していた。

このように、昭和35年前後から、昭和45年ころの約10年は、
テレビについて都市部と地方の格差の大きい時代で、
流行歌の受容に関しては、NHKと民放のラジオ、レコードがメディアとして大きな役割を果たしていた。
また、映画がなんとかまだ大きな力を有していた時代でもあった。

それにしても、能書きが長いのである。
何をいいたいかというと、舟木一夫出現以前に、子供でありながら私たちは大人の流行歌を聞き、
いい歌はそれなりに受容していた。
「俺は歌手じゃない」という石原裕次郎もその中に当然いた。

女性歌手についていえば、私はお千代さん、島倉千代子が好きだった。
万城目正が、ふたのわれたやかんとか、なべとか評した、
お千代さんの頭のてっぺんから出るあの若いころの歌声が好きだったのである。

また、それを語り始めると長いので、結論をいえば、
舟木一夫出現以前は曲の好きな歌手はいろいろいたが、好きな女性歌手は「島倉千代子」、
舟木一夫出現以後の好きな男性歌手は「舟木一夫」のみ、女性歌手は「藤圭子」が加わったことになる。

なんだ、結局3人とも好きなんじゃないか、節操がないなといわれたら、
「そうですね」と言わざるをえないのがつらいところだ。

このお三方に共通なのは、抜群にうたがうまいということである。
何を基準にそういうのか、と問われると考え込まざるをえないが、
美空ひばりさんが「あら、そうかしら」といったとしても、考えを変えるつもりはない。

私は、歌手の喉と発声というものは、究極の「楽器」であると思っている。
楽器が固有にもつ「音色」や「くせ」についての好き嫌い、あるいは取捨選択は、
一義的にそれを「聞くもの」にゆだねられている。

歌手が「楽器」だとすれば、歌手は与えられた課題曲について、
自ら「主体的に」制御しながら、その楽器に「命を吹き込む」という二つの役割をはたす。
また、「歌詞」と「旋律」の交感をその肉体で、見事に実現させなければならない。
歌がうまいとは、その能力を天性のものとしてもった人のことをさすのだ。

この3人の歌手は、だから、自分以外の歌い手の歌をうたっても見事である。
舟木一夫なら「山の煙」、島倉千代子なら「緑の地平線」、藤圭子なら「みだれ髪」。
そのほかにもたくさんある。
機会があったら聞いてみていただきたい。
原曲もいいが、それぞれのカバーもまたうならざるを得ないのである。

そういう意味(かけがえのない、美しい楽器を我々が失ったこと)で、
このたび、藤さんが亡くなったのは、私にとってショックであるとともにまことにさびしいことだ。

お千代さんも、もう舞台やテレビであの歌声は望めないだろうし、
元気な姿を見ることも、今後なかなかかなわないかもしれない。

そうすると、あとは舟木さんしかいないことになってしまった。

舟木さんもいつまで頑張れるかわからないところだが、
ご自身は、なんとか70才まではといっておられる。できるだけながく活躍していただきたい。

同時代をともに生きてきた方が、思いもかけず突然に逝ってしまうのは本当にかなしいことである。
藤圭子さん、かなうものであればもう一度あなたのうた声が聴きたい、そしてあなたの笑顔がみたい。

映画「永訣(わかれ)」

<永訣(松竹)昭和44年(1969)>

年をとると、一つのことをいろいろな側面からみて、あれこれと思いを巡らす。
舟木一夫の映画における役柄を考えてみたい。

「高校三年生」からの学園ものの映画化においては、当然高校生として出ている。
「高校三年生」、「学園広場」、「君たちがいて僕がいた」、、
「北国の街」などである(「花咲く乙女たち」は学園ものではないが定時制高校の生徒)。

「東京は恋する」では美大を目指す青年、「高原のお嬢さん」では大学の農学部を出た民間研究者、
「哀愁の夜」では新米弁護士。「友を送る歌」では航海士を夢見る見習い船員である。

そして「絶唱」では、地方の山林王の息子でおそらく京都帝国大学であろう大学の学生。
「夕笛」では前半で旧制高校生、「花の恋人たち」では医学部の学生。
「青春の鐘」では越後長岡から来た東京の名門大学生。
そして「永訣」では旧制中学から海軍兵学校にすすむ青年の役である。

こうして、列挙してみると、学園もの以後舟木が扮しているのはかなり知的な役どころであることがわかる。
それは風貌からして必然的にそうならざるをえないところで、
このことについて、ファンであってもなくても不自然さを感じるひとはあまりいないだろう。

そのなかで、松竹で製作された全3作の第1作であるこの「永訣(わかれ」については、
私も、ぜひ私的な覚書を書いておきたいと思っていた。
原作(「愁思のひと」)者であり脚本も書いた高橋玄洋が海兵最後の78期であったことからも、
これは彼自身の体験と思いを色濃く反映した作品であろう。

いまでこそ、海兵のなんたるかを知る人は少ないと思う、
おそらく我々団塊の世代がその意味を知る最後の世代ではないだろうか。
明治44年生まれの父(香川県丸亀市出身)が戦後、子供の私によく言っていたのが、
「旧制中学で一番のやつは海兵に行く、二番が同文書院、三番が三高だった」という定型句である。
これは単に私の父の思い込みで、他県などではまったく違う評価も当然あったかもしれない。
今調べてみれば、そもそも東亜同文書院は日本の正当な高等教育機関ではなかった。

しかし、以来、私には海軍兵学校は決して自分が到達することのできない(現実に、戦後廃校になっている)、
「見果てぬ夢」として記憶された。

海兵は頭がいいだけでは入れなかった、身体壮健でなければならなかった。まさしく文武両道である。
そして、世に「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。
直訳すれば「高貴であれば責務がある」であろうが、
極論すれば「貴人は真っ先に死ににいかねばならない」という
当時の高級軍人の精神のあり方についての謂いととることもできる。

「永訣(わかれ」はこうした前提をもってみていただければ、理解しやすいのではないかと思う。
舟木ふんする萩中学の小野寺牧人がふとした偶然からひそかに思いを寄せるのは、
地元の酒造りの旧家の娘であり海軍軍人に嫁いで、いまは未亡人となっている人(夕子)であった。

戦時下、本来自由主義的な考えをもつ牧人もこの未亡人の周辺でおこる出来事に影響されるようにして、
自分の考え方を変えていく。

三高志望だった進学先を、急遽海兵に変えたが、それでも牧人は見事に合格した。

しかしその日は同時に深い悲しみの日でもあった。

松竹らしい、丁寧な作風である。
古い造り酒屋で行われる(正月用の)餅つきの晴れがましさ、
それにからむ牧人と旧家の人々のやりとり。
昔、日本にあったよき習俗の記憶としても懐かしく見ることができる。

牧人が海兵に入ったときには、すでに対米戦争が始まっていた。
ヒロインの妹(弓子)が姉とその夫のいる呉の寓居にやってきて、
好きだった牧人(江田島在)と偶然出会うが、
「牧人さんも来てることだし、もう一晩泊まっていったら」という姉たちの言葉にもかかわらず、
「勤労奉仕があるので帰らなきゃ」と広島行きの列車に急ぐシーンがある。
そして弓子は、帰って行った山口の宇部で焼夷弾にやかれて死ぬのである。

「はるさめ」(牧人に女学生がつけたあだな)を本当に好きだったのは妹の弓子であった。
その好きなはるさめが目の前にいるにも関わらず、勤労奉仕のために命をかえりみなかった弓子。
私は、今日に生きる身として、当時の無数の弓子たちに本当に申し訳なく思う。
また、戦争末期、大学や予科練や海兵から特攻機にのって南海に散った数知れぬ若き英霊にも。

この映画が公開されたのが、1969年。
全国の大学にも、支配層や管理層の旧弊や腐敗に抗して、学生の反乱の風がふきあれ、
一種緊迫した時代だった。
いまさら、海軍兵学校ものの映画でもなかろうというときで、
おそらく松竹の目論んだ観客動員もままならず、
ほとんど話題にならずに終わってしまったのではないだろうかと思う。
この間まで舟木ファンであった私も、小難しい理屈をこねる学生の一人となっていて、
少年時あれほど海兵にあこがれたにかかわらず、この映画をみていない。

しかし今、あらためて見返してみると、当時の制作関係者の意図にかかわらず、
日活の「絶唱」がそうであったように、立派にある意味での「反戦映画」になっていると思う。
国境をめぐって、隣国と緊張状態が露出してきている今日、戦争とはなにか、
愛するものを戦場に送ることとはなにかを再び冷静に考えるための契機となる作品だ。

ただそんな難しいことをいわずとも、若き舟木の好演ぶりを純粋に楽しめばよい。
兵学校生徒の外出用の白い制服がよく似合うのも舟木一夫だからこそである。
また、弓子を演じる尾崎奈々の「場違いな」かわいらしさ、りりしさが印象に残る。

舟木映画終盤の作品のなかで、大きく注目されることはなかったであろうけれど、
その構成といい、内容といい見事な名作といえるのではないだろうか。

緒方拳が重要な役柄を演ずるが、この怪優については数えきれない評価が別にあるので、
ここではふれない。
また夕子を大空真弓が演じた。
若い時の彼女は新東宝の美人女優であり、少年時代、
私もそのファニーなかわいらしさにほれぼれしたものである。

映画「北国の街」

<「北国の街」日活 昭和40年(1965)>

富島健夫の「雪の記憶」をベースに当時新進気鋭の倉本聰が脚本を書き,
「仲間たち」を皮切りに日活舟木映画を連作した柳瀬観が監督した作品。
もちろん舟木の新曲「北国の街」を映画化するために、「雪の記憶」の各エピソードと
筋書きを大胆に換骨奪胎した内容になっている。

原作では戦後、新学制が敷かれる直前の旧制中学の生徒と女学校の生徒との恋愛として描かれた。
原作にはっきりと書かれてはいないが、おそらく舞台は下関の対岸にある北九州の海辺の町、
今でいえば北九州市の門司か小倉であろうか。
玄界灘や響灘は山陰の日本海の延長線上にあり、冬に雪は珍しくない。

そして映画は、舞台を本当の北(雪)国、長野県飯山市に置き換えて、
新制の男子高校と女子高校の生徒の物語として描かれた。
(サイドストーリーとして語られる織物は、隣県新潟小地谷の名産おぢやちぢみや十日市の紬・絣などがモティーフとなっていると思われる)

ここで、この学制の違いの意味は小さくない。
旧制中学の生徒は、戦時下を除けば経済的に比較的恵まれた環境にいたものであるが、
将来進むだろう旧制高等学校のバンカラの気風なども、あこがれてまねていた。
それ故に、もっぱら女学生や女性に興味を示すものは、
勉学や武道にまい進する「硬派」に対して、「軟派」とよばれて軽くみられた。
この軟派は現在の動詞「ナンパする」の語源である。
硬派にも軟派にも共に不良はいて、見境なく喧嘩をするのであるが、その原因はもとより違う。
硬派の喧嘩は他のクラスの生徒や、他の学校の生徒と腕っぷしと度胸を競うものだが、
軟派の喧嘩はおおむね女をめぐっての喧嘩である。

新制高校になってからの、大きな変化は全国で男女共学が始まったことだ。
教育内容も戦時下の軍国教育から、男女平等の民主主義教育に変わった。
新制中学校も同じだから、ほぼ全国の中等教育の現場ですぐ隣に異性がいるということへの、
思春期特有の緊張やアレルギーはなくなったのである。
学校の中で女子にしゃべりかけることは男子にとって軟派ではなくなった。
むしろ男女が対等にものを言い合うのは、良きこととして推奨されたのだ。
しかし、公立の高等学校でも、戦後共学にしなかった県や市がある。
そこでは、戦前のような、硬派や軟派の伝統が少なからず残ったのではないかと思う。

この作品は、そういう共学にならなかった地域の高校の物語として設定されている。

原作の富島健夫は戦後、青少年の性愛を大胆に描いて話題になった作家で、
私のような田舎の奥手な少年にとっては、まるで別世界の人であったし、
クラス仲間でエロ作家という見方をしていたほどだ。
森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」は読んでも、富島健夫の作品は読むことはなかった。
ある意味で愚かな唐変木で、このころから世界を狭く生きていたのだろう。
ともあれ富島作品など愛読していれば、とても受験勉強はできなかったのだが。

いろいろ調べてみると、倉本の脚本は当初、
富島の原作のなかから、これくらいはまあいいだろうという、
それなりのラブシーンを用意していたようである。

しかし、柳瀬監督が舟木と仕事をするのはこれで3作目であり、
舟木のもつある種中性的な資質こそが魅力であることを、すでに了解していたのだと思う。
公開された映画「北国の街」には、見ている少年、少女をいたずらに赤面させたり、
はらはらさせる場面はは出てこない。
むしろ、それにかえて主人公海彦が和泉雅子扮する雪子と手のひらと手の甲だけで表現した、
抑制のきいた愛の交換のシーンに見事に昇華させているのだ。

誤解を恐れずにいえば、これは日本映画史上最も美しいラブシーンである。

この名シーンは舟木と和泉のコンビ以外では実現しえなかった。
和泉の、あのにらみつけるような、若くて無垢な愛の確認のまなざし。
そこには、今、目の前で応えてくれぬ者への愛しさも恨みも疑いも激情も、
すべてないまぜになってこめられている。

ただ、もし今、和泉さんにこの時のことを聞けば、
「なーんにも考えてなかった」というに決まっているが(笑)。

キャメラワークもカットバック編集もすばらしい。

また、この映画はこれ以後の「舟木一夫」を決定づけた作品と言っても過言ではない。

つまり、これまでのように学友のなかに女友達がいたり、仲間の恋愛をそばで見守るような、
平穏なシチュエーションではなく、自らが恋愛の主体となることによって周りの者との対立や、
恋人との関係性故の心の葛藤を抱え込むことになるのだ。
それはのちの悲恋三部作へもつながっていく。

この作品で、もう一つの見どころをあげるとすれば、
それは冒頭のタイトルバックで流れる「北国の街」の主題歌。
レコードとは別録りされたツーコーラスのこの歌声は、
舟木が一番好きな歌唱法でうたったお気に入りのものだと思う。
その幾分そっけない歌い方にこそ、舟木歌謡の真髄があるということを私は強く感じるのだ。

他にも、主人公の無二の親友となる不良、藤田を演じる故山内賢のかっこよさが忘れられない。
山内は日活の舟木映画にかかせない役割を常に演じたが、本当にこの名優を共演に得ていなければ、
舟木映画そのものがなりたたなかったろうと思うほどである。

病気が彼の俳優人生を短くしたのが残念でならない。改めてご冥福をいのりたい。

映画「花咲く乙女たち」

<花咲く乙女たち(日活)昭和40年(1965)>

いままでも指摘されているように、
スターは自分の所属会社以外の映画には出演できないという当時の約束事(5社協定)にも関わらず、
舟木一夫はすべての映画会社の作品に主役ないし準主役の形で出演をはたした。
映画スターとして出発したのではなく歌手だったからこそなしえたことだが、今思うと驚くべきことだ。
いかに舟木の人気が高かったかがわかる。

「花咲く乙女たち」は日活出演の第4作。
もちろん舟木の新曲を主題として、劇場映画の娯楽性のために、そのモチーフに大胆なデフォルメが
ほどこされた作品である。
レコードの「花咲く乙女たち」の曲調と歌詞(西条八十作詞)からいえば都会を行きかう美しい娘たちによせる、
都会の男の子の淡いセンチメンタリズムを感じ取るのだが、
この映画はその真逆の入り口から物語をスタートさせる。

舞台は舟木の本当のふるさと尾張一宮(いちのみや・旧尾西市と旧一宮市が合併して現一宮市となった)、
そして乙女たちはそこで織物工(織姫)として働く娘たちだ。

当時はタイアップ企画が当然だったらしく、一宮は「労務管理モデル宣言都市」としてタイトルバックにも
堂々と名をつらねている。
つまり、「女工哀史」(近年では「ああ野麦峠」)の悲劇は遠い昔、娘たちは清潔で、文化的で、健康的な
環境のもとで生き生きと働いていることが、随所にもりこまれているエピソードで語られる。

舟木ふんする牧村はそんな娘たちが働く工場や周りの中小の工場に、
給食を提供する配膳センターの真面目な職員である。

そこに、日活得意の非日常が「やくざ」とその「チンピラ」という形で割り込んでくる。
山内賢と堺正章のチンピラコンビが織姫たちをある目的のために毒牙にかけようと、
親分の命をうけてこの一宮にやってきたのだ。

山内と堺の隠しきれない善人ぶりが、
わけありでなければならない二人の人物設定を即座に破たんさせているが、
そこは青春娯楽映画、筋書きにとってもまったく問題にならない。
山内賢はあのやさしい端正な面立ちで、すごめばなかなか怖い。
さすが子役時代から芝居をしているだけのことはあると感心させられるのだ。
このひとは、映画で本格的に喜劇をやればもっと有名になったのではと今でも思う。
日活であったことが、その機会を奪ったのかもしれない。

また、ヒロインの西尾三枝子の当時のかわいさ、清純さはこの映画でも最大限発揮されている。
定時制高校でセーラー服姿をみせるのだが、
もし現実にどこかの高校にいたら、間違いなく全校のマドンナであったろう。
学生服姿の舟木が、冬の寒さのなかでほほをこわばらせながらしゃべるセリフも、
夜学に通う生徒のリアリティーにあふれていて映画スター舟木の面目躍如である(ほめすぎか)。

当然、この映画でしゃべる舟木のセリフは一宮弁であるわけで、デビュー前の上田少年が
ふる里でおよそどんな言葉使いだったかが想像できる貴重なものだ。

職場のコーラス部が皆で犬山市にバスハイクに出かける。
その中に山内も堺も交じっている。舟木と西尾が誘ったのだ。
ここでなぜか国宝の犬山城をバックに、
西尾が山内に無理やり色歌の「つーつーれろれろ」を「歌わせられる」という、
信じられないシーンが挿入されている。

この後、西尾がみせるいかにも情けなさそうなそぶりは、乙女心の悲しさを表していて、
目立つことはないがまさしく名演技といっていいだろう。

旧尾西市とのタイアップ企画でもあり、山内が田舎から出てきた西尾の父の観光案内を買ってでたり、
やくざがお汁粉屋をやっていたりとマチエールをつぎはぎしたような構成で、
その結末もやや唐突だが、柳瀬監督が撮ってつなぐと、
一種変わった友情と恋の類型として「ありかな」と思わせる説得性をもつ。

「花咲く乙女たち」は、今も日本のそこここで繰り返される青春の光と影の1ページを、昭和40年前後に
「労働と青春」という形で提示してみせた、単なる歌謡映画の域をこえた佳作である。
 
いつの時代でも、真面目にコツコツと働くことはつらい。
舟木一夫の役柄は、そんなことをつらいと思わない青年として常に描かれる。
そこにリアリズムがないのではなくて、逆に彼の面立ちや物言いがその役をリアルにするのである。
これは、ひとえに舟木のもって生まれた資質のなせる業だと思う。
舟木の役柄のように、真面目に生きなければいけないと私たちに思わせてくれた映画だ。

いま見ると、当然みんなが若くてきれいだ。
のちに「サインはV」でお茶の間の主役となった岡田可愛も女工の一人として顔を出している。
彼女が劇中でしゃべる言葉は、彼女の実際の出身地のことば、
つまり大阪弁そのものであるのがおもしろい。
プロフィール

Ricky

Author:Ricky
永遠の青春スター☆舟木一夫と
ゴルフ界の希望の星☆石川遼を
こよなく愛するOLD MAN
サラリーマンを経て
士業をなりわいとするも
石川プロのホールバイホール
チェック&応援のため昼夜逆転~
夜も寝ないで昼寝してしまう
哀愁おやじです

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